マツダさんは185cmほどある長身だったが100kg以下のジュニアヘビー級だったが、NWA世界ヘビー級王者ルー・テーズにも数度挑戦しており、1964年12月10日、フロリダ州ジャクソンビルではのタイトル戦は60分時間切れ引き分けで、ルーは「馬場 is ジョーク。誰が馬場をレスラーだと思う」と言っていたが、「ヒロ・マツダは素晴らしかった」と誉めていた。マツダさんはジン・キニスキーの次のNWA世界ヘビー級王者候補でもあったが、100kg弱とヘビー級としてはやや小さかったため世界最高峰NWA世界ヘビー級王座獲得はならなかった。
昔のアメリカのプロレスは大体、州ごとのテリトリー制で1960年代のNWAのメインテリトリーだったフロリダ地区のトップ選手だったマツダさんはCWF (Championship Wrestling from Florida)の株を持ち、役員として団体運営にも参画して、CWFのブッカーとしてもいいレスラーをブッキングしてフロリダ地区を繁栄させた。反日感情が強く保守層が多い1960年代のアメリカ南部フロリダにおいて裸足の “日本人善玉” としてフロリダ地区(CWF)の南部ヘビー級王座、フロリダ・タッグ王座、NWA世界タッグ王座。ジョージア地区のNWAコロンバスヘビー級王座。ミッドアトランティック地区(南北カロライナ、バージニア)のNWAミッドアトランティック・サザンヘビー級王座、NWAイースタンステーツヘビー級王座。NWAトライステーツタッグ王座(オクラホマ)などタイトルをたくさん獲得した。「Matsuda Wrestling & Judo School」を開校してたくさんの名選手を生み出した。ハルク・ホーガンは入門初日にマツダさんのレッグロックで右足脛を折られてプロの洗礼を浴び、数ヶ月後の復帰後も「今日はマツダがどんな拷問を仕掛けてくるのか怖かった」と語っており、WCW世界タッグ王者ポール・オンドーフ、WCW世界ヘビー級王者レックス・ルーガー、WCW世界ヘビー級王者ロン・シモンズ、インターナショナルタッグ王者谷津嘉章、フロリダヘビー級王者武藤敬司ら世界王者レベルの選手を育成した。
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