アーカイブ | 11月 2021

テリー・ファンクの名言

1989年、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦していたテリー・ファンクが言った名言が印象に残っている。

“7 times world champion is 7 times lost so no good!!”(7度世界チャンピオンになったということは、7度取られているからダメ)

なるほど…歴史を混乱させたということですね。

1989年11月15日にニューヨーク州トロイで行われた「Clash of the Champions IX~New York Knock Out~」でのフレアーvsテリーの「I Quit Match」は物凄い試合だった。

Respect for Hiro Matsuda ヒロ・マツダ 

私の尊敬するプロレスラーにヒロ・マツダさん(本名:小島泰弘)がいる。神奈川県横浜市鶴見区出身のマツダさんは1957年に日本プロレスに入団するが、力道山の理不尽な仕打ちに反発して1960年に日プロを退団した。その後、横浜港から船で1ヶ月かけて叔父のいるペルーに渡り、アーネスト・コヒマ(Ernesto Kojima)のリングネームで試合をしたがペルーは治安も悪く、反日感情も強かったようで「命があるのか、ないのか分からないような怖い思いをして試合をした」という。その後、マツダさんはアメリカ大陸を北上してメキシコを経て、1961年にアメリカへ入った。当時は簡単に海外に行けず、反日感情が強いアメリカに日本人が仕事で入国するということは難しかったと思われるが、運がよかったのか?

1960年代のアメリカは日本の真珠湾攻撃に対する反日感情が強く残っており、二世、三世ら含む日系レスラーは “アメリカ人の敵の日本人悪役” で観客から大ブーイングを浴びて罵られ、物を投げられたり、刃物で切りつけられたり、山本小鉄さんは足元に銃弾を打たれたりした。マツダさんはカールゴッチからマンツーマンの指導を受けてサブミッションホールド、ジャーマン・スープレックス・ホールドを習得して本格派のプロレスラーとなり、当初は “アメリカ人の敵の日本人悪役” だったが、多くの地区で裸足にショートタイツでのレスリング技術を武器にした技巧派の “日本人善玉” として活躍した。保守層が多く、反日感情が強かったアメリカ南部で一体どうしてそんなことができたのだろうか?凄いことである。

1964年7月11日、マツダさんはフロリダ州タンパでNWA三大王座の1つのNWA世界ジュニアヘビー級王座を約4年も保持していたダニー・ホッジを破って獲得するという偉業を達成し、「What!?」と米マット界が揺れたという。1966年1月15日にはアメリカに修行に出たアントニオ猪木さんと組んでテネシー&アラバマ地区のNWA世界タッグチャンピオンにもなった。猪木さんは「日本プロレスでは極めっこのスパーリングでは誰にも負けなかったが、マツダさんはカール・ゴッチから教わった私の知らないテクニックを持っていた」という。つまり、猪木さんは極めっこのスパーリングでマツダさんに勝てなかったということである。

マツダさんは185cmほどある長身だったが100kg以下のジュニアヘビー級だったが、NWA世界ヘビー級王者ルー・テーズにも数度挑戦しており、1964年12月10日、フロリダ州ジャクソンビルではのタイトル戦は60分時間切れ引き分けで、ルーは「馬場 is ジョーク。誰が馬場をレスラーだと思う」と言っていたが、「ヒロ・マツダは素晴らしかった」と誉めていた。マツダさんはジン・キニスキーの次のNWA世界ヘビー級王者候補でもあったが、100kg弱とヘビー級としてはやや小さかったため世界最高峰NWA世界ヘビー級王座獲得はならなかった。

昔は素人の挑戦を受ける“カーニバル”と呼ばれる闘いがあった。ノールールの試合のためミスター・レスリング(ティム・ウッズ)は対戦相手に指を噛みちぎられた。どんな化け物が挑戦してくるか分からない危険な闘いであったが、マツダさんは何度もカーニバルをやり1度も負けなかったという。

昔のアメリカのプロレスは大体、州ごとのテリトリー制で1960年代のNWAのメインテリトリーだったフロリダ地区のトップ選手だったマツダさんはCWF (Championship Wrestling from Florida)の株を持ち、役員として団体運営にも参画して、CWFのブッカーとしてもいいレスラーをブッキングしてフロリダ地区を繁栄させた。反日感情が強く保守層が多い1960年代のアメリカ南部フロリダにおいて裸足の “日本人善玉” としてフロリダ地区(CWF)の南部ヘビー級王座、フロリダ・タッグ王座、NWA世界タッグ王座。ジョージア地区のNWAコロンバスヘビー級王座。ミッドアトランティック地区(南北カロライナ、バージニア)のNWAミッドアトランティック・サザンヘビー級王座、NWAイースタンステーツヘビー級王座。NWAトライステーツタッグ王座(オクラホマ)などタイトルをたくさん獲得した。「Matsuda Wrestling & Judo School」を開校してたくさんの名選手を生み出した。ハルク・ホーガンは入門初日にマツダさんのレッグロックで右足脛を折られてプロの洗礼を浴び、数ヶ月後の復帰後も「今日はマツダがどんな拷問を仕掛けてくるのか怖かった」と語っており、WCW世界タッグ王者ポール・オンドーフ、WCW世界ヘビー級王者レックス・ルーガー、WCW世界ヘビー級王者ロン・シモンズ、インターナショナルタッグ王者谷津嘉章、フロリダヘビー級王者武藤敬司ら世界王者レベルの選手を育成した。

1966年5月、力道山死去後の日本プロレスに凱旋帰国して洗練されたテクニックと日本人初のジャーマン・スープレックス・ホールドを披露してファンを魅了し、1967年の国際プロレス旗揚げ戦にも参加、全日本プロレス、新日本プロレスにも参加し、CWFのブッカーとしてアントニオ猪木、ストロング小林、マサ斎藤、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、藤波辰爾、武藤敬司らたくさんの日本人選手をフロリダマットにも上げて日米プロレス界の架け橋になった。

アメリカでのマツダさんは日本人、英語が完璧に喋れない、日本食が食べられない…大変な状況の中、ジュディさんと結婚して家庭を持ち、2人の娘さんを授かった。35年程前に娘さんが学校で500年,600年前から続く小島家の家柄のルーツを作文に書いたら、学校から賞を受賞したとのこと。移民の国で建国200年のアメリカにとっては500,600年の家系のルーツは興味深かったようです。

マツダさんは22年前の1999年11月27日、大腸癌がん、肝臓がんのためタンパの自宅で62歳の若さで家族に看取られて亡くなった。マツダさんと話がしてみたかった。マツダさんは1960年代初期から英語も喋れないのに反日感情の強い海外にたった1人で行って闘ったマツダさん。リング上(試合)とリング下(日常生活)の闘い、プロレスラー・ヒロ・マツダと人間・小島泰弘の話を聞いてみたかった。どれだけ大変だったのか…。

ヒロ・マツダ試合結果

https://showapro2016.web.fc2.com/wrestlers-results-J/hiro-matsuda/matsuda57-60.html

ヒロ・マツダ(プロレススーパースター列伝)

銃弾のガチャガチャ

どこだか分かりませんが、1ポンド(約450g)の銃弾が$7.60(約866円)~$20(約2280円)ぐらいで売っており、お安くなっております。