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No call +- Driver in USA アメリカではドライバーを+-と言わない

アメリカではドライバーを+, -とは言わない。アメリカで「日本ではドライバーを+, -と言う」と話したら、「なるほど、面白い」と感心された。

I told American friend, “screwdriver is Japanese call +driver, -driver. ” He said, “That’s interesting!!”

アメリカでドライバーはスクリュー・ドライバーと呼び、「+ドライバー」を、Phillips-head screwdriver, Phillips screwdriver, Phillips driver, Cross-head screwdriver, Cross screwdriver, Cross driverと言う。マイナス・ドライバーを、Straight-head screwdriver, Straight screwdriver, Straight driver, Flat-head screwdriver, Flat screwdriver, Flat driver.と言う。

なぜ+, -と言わないのか?

36年前の今日1988年3月18日

日本初のドーム型球場「東京ドーム」のこけら落としの日で、前年に中国鍼での禁断のツボへの治療を拒否して引退した読売ジャイアンツの江川卓投手の引退セレモニーがあった。

成田空港のサテライトのテレビで東京ドームの映像を見ながらルー・テーズ道場へ2度目の出発、ニューヨークJFK経由でバージニア州ノーフォーク着。ルーの車で鉄人御殿に向かう。アメリカは外国人と外車が多く、街灯が少なく真っ暗。鉄人御殿は2ベッドルームのアパートで1部屋をあてがわれる。クローゼットの中にUWA世界ヘビー級ベルトとルーの黒いリングシューズがあった。

技の習得

本家本元が開発したオリジナル技、その本家本元から直接指導された選手が正式な継承者であり、しっかりと練習もしないで、見よう見まねで技をやるのはいかがなものか?そこにあるのは本家本元に対するリスペクトである。

ヒロ・マツダ  1963年、雪のオハイオ州コロンバスでカール・ゴッチさんと3ヶ月間、マンツーマンで練習してジャーマン・スープレックス・ホールドや関節技をマスターした。当時はジャーマンスープレックスを受けられる選手も少なかったため超高度な技だった。

アントニオ猪木  アメリカでヒロ・マツダさんとスパーリングをしてカール・ゴッチの技術を知り、日本プロレスでのゴッチ教室でブリッジの練習をやり、ジャーマン・スープレックスや関節技をマスターした。

藤波辰爾  1975年、フロリダ州オデッサのカール・ゴッチさんの家に半年ほど住み込み、庭の芝生の上で髪を引っ張られて無理矢理ブリッジさせられてブリッジをマスターした。芝生に頭がゴツンして痛かったとのこと。芝生の上でロビンソンと名前のつけられた人形を投げてスープレックスの練習をした。ゴッチさん「これをビル・ロビンソンと思って投げろ」とのこと。

ジャンボ鶴田  1973年、テキサス州アマリロでテリー・ファンクからピクピク痙攣する技を教わる。1983年、全日本プロレス道場でルー・テーズから1時間ほどバックドロップを教わる。練習台は三沢光晴。鶴田さんが練習時間に遅刻してルーが不機嫌だったとのこと。

セッド・ジニアス  1988年、バージニア州ノーフォークのルー・テーズ道場のマットを敷いていない板張りのリングで8ヶ月間、ブリッジの練習、おがくずが入ったビッグバッグ「ダスティ」を投げてバックドロップの練習をした。ビッグバッグがダスティ・ローデスのようにプヨプヨしていたからダスティと名付けられた。原型STFはテーズ道場ではグランド・レスリングでの裏技で何千回と練習した。

藤原喜明  「この関節技はどうやって極めるんですか?」と山本小鉄さんに聞き、「根性で極めろ」と教わる。

蝶野正洋  1989年9月、バージニア州ノーフォークのルー・テーズ道場で3日間ほどSTFを教わる。なぜかバックドロップではなくSTFだった。教えなければ闘魂三銃士はなかったと思われる。

木村健悟  阿修羅原さんがアメリカで習得してきた雪崩式ブレーンバスターを国際プロレス道場で公開して東スポに報じられた。アントニオ猪木さんも「こんなことできるのか!?」と驚いていた。数日後のIWGP予選リーグ戦でトップロープに登った藤波辰巳さんに健吾さんが仕掛けようとしたが、藤波さんの体を自分の上に落としてしまいフォール負け。 1度も練習せず自爆した。一番ダメなケースである。